いろんなものはつながっている

現代語訳 論語と算盤

渋沢栄一が資本主義の中でビジネスを行うえでの心得を示した「論語と算盤」の現代語訳本。

自分が渋沢栄一の名前を初めて知ったのは、井の頭線が吉祥寺でとまってるのは環状線をつくろうとおもったら渋沢栄一が死んでしまって計画終了になってしまったから、という話を友達から聞いたとき。(←渋沢栄一は井の頭線には絡んでいるが環状線計画うんぬんの話は別の話なのかな)

読んでいてほんとうに耳が痛いはなしばかりであった。

分相応をわきまえろ

これはなにも何もやるなとか、卑屈になれとか、そういう意味ではない。

人それぞれが自分自身の境遇と能力と興味をしっかり見極めたうえで、食っていく道を探すこと。

それが多種多様な人材を生むことにつながり、個人としても国家としても繁栄につながる、といってる。

画一的な秀才をたくさん量産してもそもそも活躍の場がそんなにない

パレートの法則ではないが、ひとが集まれば人を自然と使う側と使われる側にわかれ、使われる側のほうが圧倒的に多いわけで、それでうまく、社会がまわってる。

金の工面のあてがないのに学問の道にすすんではいかん

自分の長所や興味をよく考えて自分の将来を考えなさいとはよくいわれていることだが、それに加えて自分の境遇についても考えるようにと渋沢栄一はいっている。

またそれと同時に自分がそれをやりとげる境遇ににいるのかを深く考慮することも必要だ。たとえば、身体も強壮、頭脳も明晰なので、学問で一生を送りたいとの志を立てても、そこに経済力が伴わないと、思うようにやり遂げられない場いいもある。

耳が痛い。

自分の境遇、実力を考えたら博士課程なんかにすすんではいけなかったんだな。三度の飯よりその分野を追求することが好きというのならかまわないが、三度の飯が大好きな自分にはいい選択ではなかったんだ。

学問をしたからといって偉い自分になれるわけではない

今の青年は、ただ学問のために学問をしている。初めから「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、「自分は何のために学問をしてきたのだろう」というような疑問に襲われる青年が少なくない。

これは、現代の受験勉強に通じるものがある。受験勉強はどこか頭いい自慢のきらいあるだろう。たしかにそれがモチベーションにはなるだろうけど、それが行き過ぎるとゆがんだモチベーションになって、ここで指摘されてる状態になる。

本来なら目の前の受験勉強なんかに楽しみを感じていてはだめで、もっと遠くをみてわくわくすること見つけて、そこから逆算していま何やるかを考えないといけないんだろう。

「学問をすれば誰でもみな偉い人物になれる」という一種の迷信のために、自分の境遇や生活の状態を顧みず、分不相応の学問をしてしまう。その結果、後悔するようなことになるのだ。

親が子供に勉強をやらせる常套句を真っ向から否定している。こんな言い方をしても子供は勉強しないし、逆にいうこと聞いて勉強してしまうのは危険だよね。

ただ、

知らないことがわかるってのは純粋に楽しい

渋沢栄一もこんなこともいっている

変化のあまりないこの時代は長くやることが重要

とくに、世の中に大きな変化がなくなってきた今日では、一度立てた心罪を途中で変えるようなことがあっては、大変な不利益を被ることになる。だから、最初に志を立てるときに、もっとも慎重に考えをめぐらす必要がある。

これも耳が痛い。

自分ではそのときそのときで考えて選択してきたつもりだけも、結果的には3~5年ごとに違う分野のことをやってる。

私生活はなかなか豪傑だったらしい

私生活のほうは、なかなか豪快だったらしく子供は30人以上いるということ。

現代であったら、どこそこをつっこまれて、失脚してたかもしれない。昨今の社会だと、社会的地位のあるひとの粗探しをして、しょうもないスキャンダルで揚げ足をとることが横行してる。

官僚選びも身体検査が必須のようで、そのうち信号無視したことあるこらこのひと官僚は無理なんてとこまで進む気がしてならない。

そんなスクリーン二ングの後に残るのは人からお金を集められなかったり、女の2,3人を囲うこともできない魅力のないひとたちばかりだろうから、たいしたことはできないのではないか。

無意味な揚げ足取りして、自分で自分の首をしめていることに気づかないのだろうか。

この本にもっと早くであっていれば、というか、この本の内容をよく理解している大人に子供の頃に会っていれば、もう少し違ったのかもにしないと思ってしまう。

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